命の記憶-Living Proof-
通夜
大陸の母の関谷共美と申します。本日はご多用のところ、長男大陸のお通夜のご焼香を賜りましてありがとうございます。こんなに多くの方々が、大陸を思って、悲しんで、駆け付けてくださいましたこと、きっと大陸も驚いて、喜んでいることと思います。
心より感謝申し上げます。
大陸は、小さい時から誰も目に留めないようなこととか、見過ごしてしまうような出来事や人々にスポットライトをあてることが喜びでした。世の中の評価や肩書など関係なく、自分の目でまっすぐと人間や世界を見つめて、ほんとに豊かな言葉で語ってくれました。
大陸が研究の道に進むことを志した原点は、幼稚園のときに読んだ水木しげると、NHKのハッチポッチステーションでした。民俗学や文化や歴史、語り継がれていくべきものがあると、そういったものへの深い愛情を育みました。名前も知らないような先達たちの足跡をたどって歩いて、読んで、聞いて、記録していました。
「お母さん、そこ行くんやったら、近くにだれだれの碑があるから見てき」と言って、その歴史を教えてくれました。「みんな気づかんと通り過ぎていくねん。いつかなくなってしまう。ちゃんと残していかなあかん」といつも言っていました。
大阪検定1級を史上最年少でいただき、毎年、大阪公立大学の客員研究員として研究発表をしました。今年3月の発表のために、昨年から「また、それ誰やねん」という人のことを調べて、病床で痛みと闘いながらレジュメを作成し、ぎりぎりまで発表を楽しみにしていましたが、叶いませんでした。
そして何より、グッチ祐三さんが大好きでした。中学の時、「社会を明るくする運動」というテーマの作文コンクールで、グッチさんが、どれだけ社会を明るくするかということを、まじめに書いて優秀賞をいただきました。「グッチの歌、聞いて、嫌な気持ちになる人はいてない。みんな笑ってしまうやろ。それって最高のエンターテイメントやで」といつも言っていました。
昨年9月以降、診断が誤っていたために痛みのコントロールが全くなされていなくて、いつも痛いと叫び、悔しいと泣いていました。でも、そんなときにも「ずっと見たかった番組の再放送があったから録画してん」と、NHKの「ふたりのビッグショー」、坂上二郎さんと財津一郎さんのトークと歌の番組だったのですが、それを見て「お母さん、こんな時でも、笑ってしまってんで。それってすごない?ほんまのエンターテイメントや」と言っていました。
でも私にとっては、大陸こそが最高のエンターテイナーでした。ある日、大陸が「お母さん、丹波篠山に行ってくるわ」と言うので、「何しに行くの?」と聞くと、「デカンショ節の歌詞を募集してて、応募したら入賞した。お皿にその歌詞を焼いてくれて、市役所でそのお皿をもって、写真とってくれるらしい」。何の目的も意味もない行動。これだけで大笑いしました。縁もゆかりもない丹波篠山の市役所で、ご高齢の方に交じって、お皿をもって写っている写真の大陸の顔を思い出すと、今こんな時でも思わず笑ってしまいます。メモリアルコーナーに、その時の写真を飾っていただいているので、ぜひ探してみてください。
入院中は、毎日「お母さん痛い、助けて」と泣きながら電話がありました。体だけでなく、心は傷ついて、とっくに折れていました。そんな時でも「痛い、痛いって叫んだあとイテテイテテイテテって、バナナボート歌うように努力してんねんで、おかあさん知ってた?」と言っていました。
大陸が亡くなってから今日までに、知らせを聞いてたくさんのご友人が、遠方からも自宅に駆け付けてくださいました。皆さん、ドアを開けた時には号泣されているんですが、大陸の枕もとで、何時間も大陸の話をして、気づけばずっと一緒に笑っていました。
大陸の病気は、すべてのがんの中でも、1%の希少癌で、その希少癌の中でも、ほとんど症例がなく、治療法の確立していないがんでした。昨年8月に症状を覚えて、がんと診断されてからは、ひとときも休まることなく、壮絶な闘病生活を送ってきました。15時間半に及ぶ手術を受け、ダブルストーマとなり、術後回復する間もなく、再発を告げられました。
進行がとても早くて、腫瘍が胃や腸を押しつぶして、食べることも飲むこともできなくなりました。そして2/27、体中、腫瘍で真っ黒になった画像を示されて、残された時間は少ないと医師から告げられました。大陸は、第一声、「それなら家に帰ります。帰らせてください。家族と過ごしたい」。「お母さんごめんな、いいやろ、家に帰りたい」と言いました。そのあと小さな声で「まだがんばるで」と。
そして3月2日、やっと家に帰ってきました。病院では数日だろうと言われて、帰宅後1週間目、在宅の医師には「ここまでもつと思わなかった」と言われました。日々、大陸の体が壊れていくのを見るのは、本当に辛かったです。でも自宅に戻って、いつも弟の宙太と私がそばにいて、どんどん表情が穏やかになりました。「お母さん大好き、宙太大好き、この家に生まれてよかった」と、手を握って何百回も言ってくれました。本当に幸せな時間でした。
そして闘病を支えてくれた方々に、心から感謝していました。「僕はほんまにいい友達をもった」と、連絡をもらうたび、お見舞いに来てくれるたび、「僕は誰かに何にもしてあげてないのに、メールしたらとんできてくれてんで」「こんな僕のことを心配してくれてほんまにうれしい」といつも泣いていました。「僕は、今までありがとうっていっぱい言うたけど、今みたいに心の底からありがとうて言うたことなかったかもしれん」と言っていました。
訪問の医師や看護師さんからも、とてもかわいがられました。訪問看護の看護師さんたちが、訪問と訪問の間時間があると「様子見に来た」としょっちゅう来てくれて、大陸が、「もう家を拠点にしたらいいやん、家族やな」と言っていました。もう声も出なくなり、もうすぐですと言われてからも、でも大陸は最期まで、「万博まで歩きたい。歩けるかな。希望を失いたくないねん」「お母さん、行けるとこまで行くで」と言っていました。
そして、3月31日午前7時31分、大陸との約束どおり、宙太と私で最後を看取りました。微笑んでいるような穏やかな表情でした。きっちり31日まで頑張って、まじめな大陸らしいなと思いました。
大陸の目を通してみる世界は、ほんとに美しくて、愛すべき人々が、生き生きと躍動していました。私は28年間、特等席で大陸の話を聞いていました。本当に楽しく幸せでした。寂しくてたまりません。
今こうして、多くの方々に、このようにお心のこもった通夜をしていただき、大陸は、どんなにうれしく思っていることかと思います。大陸になり変わりまして、心からお礼申し上げます。どうぞ私ども残された家族に、とくに大陸が一番愛して、「宙太が夢をかなえるのを見届けたかった。宙太ごめんな」と、一番心配していた弟の宙太に対しまして、これからもあたたかいご支援を賜りますようにお願い申し上げます。
お時間が許すようでしたら、大陸の写真や映像などをご覧になって大陸のお話を聞かせてください。
なお、明日の葬儀・告別式は10時30分より予定しております。お時間が許すようでしたら、ご会葬いただければ幸いです。どうぞお気をつけてお帰り下さい。本日は、お忙しい中、誠にありがとうございました。
大笑いしたデカンショ節、優秀賞 ☟
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