希望の灯を未来へ

命の記憶-Living Proof-

ごあいさつ_2024.4.5


告別式

 

大陸の母、関谷共美でございます。本日は、大陸のために、遠路ご会葬賜りまして、心より感謝申し上げます。

 

昨日の通夜式においても、そのあと、たくさんの方が遅くまで残ってくださって、弟・宙太と私に、大陸への思いやエピソードを語って、悲しみを大陸への想いを共にしてくださいました。また、先ほどは、6人の方のお心のこもったご弔辞をとおして、大陸が、わずか28年間で、どんなに人生を楽しんで、どんなに多くの方に愛されたかを知ることができました。私たち家族にとっては、大きな慰めです。

 

昨日、お別れの時、高校時代の友人のお一人が、「どうしてもお伝えしたい」と、大陸とのエピソードを教えてくださいました。クラスで、ある人が言った言葉に、クラスメートはみんな爆笑したのですが、その中で、その方と大陸だけが笑わなかった。あとで、大陸とそのことを話した時、大陸は、「人をさげすむ笑いは嫌いや」と言ったそうです。

 

大陸は、羽柴秀吉さんや、マック赤坂さんや、もはや聞いたこともないような泡沫候補と言われる方々の本を読んだり、政見放送をわざわざ録画して、「お母さん、これ見てや。この人、むちゃ面白いで」と、言ってることむちゃくちゃやんという政見放送を見ながら何時間でも話をしました。大笑いしました。「でも、この人、言ってることとやってること、一貫してるやろ。人間としては信頼できんで」…。羽柴秀吉さんが亡くなったとき、ほんとに悲しんでいました。 

 

 

中学の時ですが、少し障害をもつ同級生が、大陸のことが大好きで、よく家に遊びに来ていました。その友だちが、当時小学生の宙太が、クリスマスプレゼントにもらった、ガンダムの変形する大きなプラモデルを、宙太のいない間に完成してしまって、宙太が大泣きしたということがありました。私が、「たいちゃんが止めなあかんやん。なに完成させてんの」と叱ると、「まあまあまあまあ」と、面白そうに笑っていました。我が家では、今でも語り継がれていて、そのたびに大笑いしています。

 

大陸にとって、世の中の評価や肩書などは関係なく、どんな時も、自分の目でまっすぐと人間やこの世界を見つめました。一生懸命生きている人々を愛して、面白がって、応援しました。大陸のまなざしは、とてもあたたかかったです。

 

そして、グッチ祐三さんが大好きでした。ハッチポッチステーションが、自分の研究の、そして人生の原点だと言っていました。「グッチの洋楽ものまね、聞いて、嫌な気持ちになる人はいてない。みんな笑ってしまうやろ。みんなグッチを聞くべきや。そしたら世界は平和になるで」といつも言っていました。

 

最後の数週間は、おそ松くんの全巻を1巻から読み進めていました。本が持てなくなって読めなくなってからはDVDを見ていました。どうしておそ松くん何だろう、私には思い至りませんでした。大陸は、「お母さん、おそ松くんのDVD一緒に見よ。面白いで。人間愛の話やねん」。そう言っていました。

 

大陸の病気は、すべてのがんのうち、1%と言われる希少癌で、その中でも、世界でもほとんど症例がなく、治療法のないがんでした。昨年8月に症状を覚えて、当初、診断が誤っていたために痛みのコントロールが全くなされていなくて、痛くて体も心も、ひとときも休まるときがありませんでした。壮絶な闘病生活でした。15時間半に及ぶ手術を受け、ダブルストーマとなり、そして術後回復する間もなく、再発を告げられました。

 

進行がとても早くて、あっという間に、腫瘍が胃や腸を押しつぶして、食べることも飲むこともできなくなりました。そして2/27、体中、腫瘍で真っ黒につぶされた画像を示されて、残された時間は少ないと医師から告げられました。大陸は、全てを聞き終わり「それなら家に帰ります。帰らせてください。家族と過ごしたい。まだいっぱい挨拶したい人がいる」。「お母さんごめんな、いいやろ、家に帰りたい」と言いました。そのあと小さな声で私に、「まだがんばるで」と言いました。

 

それから4日後、3/2、本当に多くの方のご尽力で、やっと大好きな家に帰ってきました。病院では数日だろうと言われて、帰宅後1週間目、在宅の医師には「ここまでもつと思わなかった」と言われました。日々、大陸の体が壊れていくのを見るのは、本当に辛かったです。でも自宅に戻り、どんどん表情が穏やかになりました。「お母さん大好き、宙太大好き、この家に生まれてよかった」。「目が覚めて、お母さんがいたらうれしいねん」「宙太は最高の弟」と手を握って何百回も言ってくれました。本当に幸せな時間でした。

 

そして闘病を支えてくれた方々に、心から感謝していました。「僕はほんまにいい友達をもった」と、連絡をもらうたび、お見舞いに来てくれるたび、「僕は誰かに何にもしてあげてないのに、メールしたらとんできてくれてんで」「こんな僕のことを心配してくれてほんまにうれしい」といつも泣いていました。「僕は、今までありがとうっていっぱい言うたけど、今みたいに心の底からありがとうて言うたことなかったかもしれん」と言っていました。

 

最期まで大陸は「万博まで歩きたい。歩けるかな。希望を失いたくないねん」「お母さん、行けるとこまで行くで」と言っていました。そして、3月31日午前7時31分、大陸との約束どおり、宙太と私で最後を看取りました。微笑んでいるような穏やかな表情でした。きっちり31日まで頑張って、まじめな大陸らしいなと思いました。「まだがんばるで」「いけるとこまでいくで」・・・大陸は、その言葉どおり頑張りました。

 

大陸が亡くなってから、知らせを聞いて自宅にたくさんのご友人が駆け付けてくださいました。皆さん、ドアを開けた時には号泣されているんですが、大陸の枕もとで何時間も大陸の話をして、気づけばずっと一緒に笑っていました。「僕の友達はみんな友だちやねん」といつも言っていました。そのとおり、大陸の友だちは、お互い会ったこともないのに、なぜかお互いのことをよく知ってるんですと、みなさん笑っておられました。そして、その友だちの輪の中に、いつの間にか宙太と私も、大陸は入れてくれていました。

 

大陸の目を通してみる世界は、ほんとに輝いていました。美しくて、愛すべき人々が、生き生きと躍動していました。私は28年間、特等席で大陸の話を聞いていました。本当に楽しく幸せでした。寂しくてたまりません。

 

今こうして、多くの方々に、このようにお心のこもったお見送りをしていただき、大陸は、どんなにうれしく思っていることかと思います。大陸になり変わりまして、心からお礼申し上げます。どうぞ私ども残された家族に、とくに大陸が一番愛して、「宙太が夢をかなえるのを見届けたかった。宙太ごめんな」と、一番心配していた弟の宙太に対しまして、これからもあたたかいご支援を賜りますようにお願い申し上げます。本日は、お忙しい中、誠にありがとうございました。

  

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